ラテックスとは何?
ゴム樹から採取したゴム液。乾燥ゴム60%に濃縮したものが標準で、凝固させシート状にし、さらに燻煙してシート・ゴムの形に仕上げて輸出に向けられるのが大半だが、液状のままでも輸出される。
株、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。それでも、母が存命している間は母の注意もあって自重していたが、やがて母も死没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
1853年にペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされて安政の大獄で捕らえられて江戸の福山藩邸において幽閉される。福山藩主の侍講・石川和助は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原刑場で斬首されてしまった。
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
株は近隣の黄檗宗象山恵明(ぞうざんえみょう)禅寺に因んだとされる。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。
天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。藩主・幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶことになる。
温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようだが、ともかくも象山は江川の下で兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。
ipo、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
しかし嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて入洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。
常陸国新治郡浦須村(現・茨城県石岡市浦須)の郷士・飯島平蔵の長男として生まれる。幼名は吉兵衛。生家は代々名主を務める家であった。9歳で下林村の真言宗観音寺に入り、住職であった阿闍梨康哉の弟子となる。「万葉法師」との別名もあった康哉に従い、万葉和歌を学ぶ。15歳で得度し、法名を良哉、字を高俊と改めた。文政10年、17歳の時には、減租を求めて蜂起した民衆を説得して沈静させ、さらに代官に直訴し、民を救ったという。奈良の真言宗豊山派総本山の長谷寺にて仏道修行を行うが、1832年、康哉の没後に観音寺の第28代住職を引き継ぐ。さらに1835年、25歳の折に、新治郡真鍋村(現・茨城県土浦市)の善応寺の第18代住職となる。
個人向け国債に移った20代の頃から藤田東湖、会沢正志斎、加藤桜老(儒学者、笠間藩士)、大久保要(土浦藩士、戊午の密勅に参画)、色川三中(国学者、幕府の醤油御用商人)、藤森弘庵(儒学者)らに学び、交友した。この頃より東雄と号して歌人として知られるようになり、水戸学を学び、国学を講じた。学識を評価され、藤田東湖らに水戸藩への出仕を勧められたが固辞したという。
1842年、善応寺住職を辞して江戸におもむき、矢ノ倉町(現・東日本橋)に移住。平田篤胤の門にて国学を学ぶ。翌1843年6月、国学の復古を志し、勤王を誓うために還俗。その足で鹿島神宮に参詣し、桜樹千株を奉献する。その桜にちなみ、佐久良靱負東雄に改名する(「靱負」(ゆきえ)には、雪のように潔く消える、という意味を込めている)。この桜は現在も鹿島神宮の鹿園の反対側の森に「東雄桜」として残されている。この時に東雄が鹿島神宮に奉じた祝詞「豊香島天津大御神乃大御社爾桜木殖奉留詞」は、明治維新後、福羽美静を通して明治天皇に天覧されることとなる。
また1844年、水戸藩奥医師である鈴木玄兆の娘であり、鈴木宗與(『救民妙薬』の著者とは別人)の妹である輝子と結婚。輝子との間に二男二女を儲けた(長男久丸は早世、次男は巌、長女は峯、次女は春)。
資産運用は各地で尊王論を遊説していたが、1845年に一旦上洛し妙法院宮の家人となった後、和泉国大鳥郡(現在の堺市)に滞在し歌学を講じた。同年、さらに大阪北久宝寺に移り、坐摩神社の神官を務め、坐摩版と呼ばれる国学書の出版を行うとともに、惟神舎を開き国学・皇学を指導した。また江戸の渡辺華山邸で出会った和歌山池上村庄屋の南繁信と友好を深め、南家に滞在しつつ尊王思想の普及に努めた。当時、東雄が生活した茶室が現在も保存されている。
1854年、再度京都に移り、神祗伯白川資訓に白家神道を学び、神祗道学師の称号を受ける。妙法院宮に召されて中奥席格となり、皇学教授に任じられた。1857年、妻輝子が死去。この頃、静馬あるいは健雄との通称を名乗り、薑園と号した。
その後、大阪に移り住み、1860年、桜田門外の変に参加した水戸浪士たちの支援を行うが、大阪に逃亡してきた高橋多一郎とその子庄左エ門をかくまった科により、3月23日に同志一同とともに捕縛され、松屋町の牢獄に繋がれる。4月上旬には江戸伝馬町の牢獄に移送され、6月27日、獄中にて病死。後世、東雄は「吾徳川の粟を食わず」と宣言して断食し、命を絶ったという説が流れた。
東雄の遺体は罪人として千住小塚原の回向院に埋葬されたが、明治2年(1869年)に水戸徳川家の援助により大阪天王寺の夕陽丘に改葬された。埋葬地が勧業博覧会の敷地となったため、明治22年(1889年)、さらに東成郡共同墓地に転葬される。明治24年(1891年)には靖国神社に合祀され、さらに明治31年(1898年)、従四位が贈られた。昭和7年(1932年)、かつて住職を務めた善応寺に改葬され、忠霊堂が建設された。法名は回向院仮葬真道居士。東雄の墓の隣には大久保要の墓も存在する。
歌人として東雄は多数の和歌および長歌を残しており、1840年3月には歌集『はるのうた』を自ら刊行している。歌人の佐佐木信綱は『近世和歌史』の中で、東雄を「勤王家中第一の歌人」と賞賛し、万葉調の古調の中に爽快感があると評している。 特に昭和初期にその評価は高まり、昭和17年11月には愛国百人一首の80番として、東雄の「天皇に仕へまつれと我を生みし我がたらちねぞ尊かりける」が採用されている(現代語訳「天皇にお仕えせよと私を生んでくださった私の母親は、なんと尊い人であろうか」)。
東雄が幼少時を過ごした生家は、1944年に国より史跡指定を受けた。正面に長屋門を構え、中庭をへだてて茅葺平屋建の母屋を有している。母屋の向って右側には土間、左側にはいわゆる田の字型の配置をした部屋が見られる。母屋の建物時期は正確には明らかにされていないが、広間型の旧式の間取りや構造手法、表門の建立許可文書などから、18世紀中期から末期、宝暦から天明期の建築と推定されている。屋敷はもと恋瀬川付近の平坦地に建てられ、氾濫のために現在地へ移築されたと伝えられるが、それに関しては史料が残されていない。飯島家は浦須村名主と鍛冶屋を兼業してきたが、明治初年頃に鍛冶屋を廃業している。建物も幾度かの修理を経てはいるが、常陸地方の旧民家の特徴をよく残しており、高い価値を認められている。