ラニーニャ現象とは何?
ペルー沖の東太平洋の赤道沿いの海域で、海面の水温が広範囲にわたり平年より低くなる、異常気象の原因と言われている現象。
【参考】エルニーニョとは逆の現象で、反エルニーニョとも言う。1988年春〜1989年春には大規模なラニーニャ現象が起きた。
【参考】エルニーニョ現象
資産運用かどうかは定かではないが、ペリーが唯一頭を下げた日本人であるとされる。
勝海舟の妹の順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。双方とも自信家過ぎてそりが合わなかった、と見える。
和歌や漢詩、書画に巧みだった。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという。
嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。
外国為替証拠金取引は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで象山の評価が低いのも、彼の性格の由来するところが大きいと言う人もいる。しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を斬殺した河上彦斎が、後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという逸話からも、そのことを窺い知ることが出来る。更に彼の門弟には前述の吉田をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。
自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女性を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし彼の息子・三浦啓之助も象山同様素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。
文化2年(1805年) 備中松山藩領西方村で生まれる。
文化6年(1809年) 5歳 新見藩 丸川松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
文政8年(1825年) 21歳 名声広まり藩主、板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)をいただく。
文政10年(1827年) 23歳 第1回京都遊学(春から歳末まで)で寺島白鹿に学ぶ。
文政12年(1829年) 25歳 第2回京都遊学(春から秋まで)で寺島白鹿に学ぶ。遊学から戻り、藩主から苗字帯刀を許される。藩校有終館会頭(教授)に抜擢される。
天保2年(1831年) 27歳 第3回京都遊学(夏から2年半)で寺島白鹿に学ぶ。このとき、陽明学に出会う。
天保5年(1834年) 30歳 江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斎の門下に入る。このとき、佐久間象山と出会う。
天保7年(1836年) 32歳 有終館に戻り、指導する。大小姓格に抜擢される。『理財論』『擬対策』を書く。
天保9年(1838年) 34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
弘化元年(1844年) 40歳 世子の板倉勝静(かつきよ)入封する。
弘化4年(1847年) 43歳 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。また庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。
嘉永2年(1849年) 45歳 松山藩の元締役兼吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。
嘉永4年(1851年) 47歳 農兵制(農民による洋式銃隊)を創設。
嘉永5年(1852年) 48歳 松山藩郡奉行に任命される。
安政元年(1854年) 50歳 元締兼藩執政となる。
安政3年(1856年) 52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。
安政4年(1857年) 53歳 松山藩の元締を辞任。このとき、板倉勝静、幕府の寺社奉行となる。
万延元年(1860年) 56歳 再び藩元締に再任される。
文久元年(1861年) 57歳
2月、江戸で藩主の顧問となる。
4月、顧問を辞任し帰国。
5月、元締役辞任。
文久2年(1862年) 58歳 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、程なく辞任、準年寄役に転ず。
文久3年(1863年) 59歳 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任されるが、5月には辞任。
元治元年(1864年) 60歳 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。
明治元年(1868年) 64歳 大政奉還ののち戊辰戦争おこり、備中松山征討軍に無血開城する
投資信託の塾舎を増築し、子弟教育につとめる。
明治3年(1870年) 66歳 刑部に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。
明治4年(1871年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする
明治10年(1877年) 73歳
6月22日、小阪部にて死去
6月29日、西方村の墓地に葬られる
方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明の伝習録から朱子学と陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。
朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。
日経225の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。
この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる。
方谷が説く理財論および擬対策の実践で、藩政改革を成功させた。
理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。事の外に立って目前の飢餓を気にせずに義と利の分別がつけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。
擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。
この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。
FXを内外に公開して藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。
大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米市場の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。
だが、他藩の専売制とは逆に生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
これら特産品を商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避けて藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄もこの航海演習に参加したことがあるという)。
藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。
桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を起こして貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
下級武士に対して、一種の屯田制を導入して農地開発と平行して国境等の警備に当たらせた。