乱高下とは何?
価格が上下に大きく激しく変動し、その後の方向が上か下かの見極めが非常に難しい状況
不動産投資に固執する武士に代わって農兵制を導入して、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(また、方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだと言う)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
方谷は朱子学(とこれを奉ずる幕藩体制)の弱点を己の欲望を絶とうとする余り義に適った利までも卑しんでしまい、結果的には正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう点にある事に気付いていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった藩(武士)が商業を手がけることに対して非難の声を受ける事もあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとしてこの批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵すると言われるようになり、農村においても生活に困窮するものはいなくなったという。
ワラントの思想は後に弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。
藩主板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職をつとめた。しかし、幕府の重職を担う以上、藩財政の逼迫を招くものであり、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩外交官として勝静の補佐役に任命したが、方谷は藩財政の復興など内政面では比類ない実力を有していたが、藩の外交官や幕政に対する能力には少しく能力が乏しく、また本人もそれに対しては興味が薄かったと解されている。そのため、勝静は再三に亘って方谷を寺社奉行や老中の補佐役に任命したが、程なくして辞任。代って藩の内政面では全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。専ら藩政の復興や弟子の育成に力を注いでいる。
くりっく365を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主池田光政が陽明学を振興していたことも岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。その後方谷は、岡山の人々の依頼で寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した。明治新政府も方谷の財政改革を高く評価して三島中洲らを通じて出仕を求めた。だが、領民達を救うためとはいえ心ならずも主君・勝静を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷には二度と再仕官をする考えはなかった。そして、明治10年(1877年)に死去するまで弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。 1996年に明徳出版社で山田準編「山田方谷全集」全3巻が刊行されている。伝記も近年、同社を中心に多数刊行されている。
上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門の二男として生まれ、諱を正之という。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。十三歳のときに「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、十八歳のときに遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとするが果たせずにいる。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った次の歌は、愛国百人一首にもとられており、名高い。
外為を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ
尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。1791年(寛政3)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。
多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。
豪農根岸信保の長男として生まれる。剣術は千葉周作に学んだ。その後自宅で剣術や学問を教えたりしていた。
外為、浪士組に参加。近藤勇、芹沢鴨らとともに京都に残る。その後、遠藤丈庵、清水五一らとともに「伊勢参詣」を理由に壬生浪士組を脱走して江戸に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。
以後は討幕の意志を固めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという。
明治元年(1868年)、勤王論を説く著書『吐血論』を刊行。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を思い切り批判する。
明治23年12月3日死亡。享年82。
墓は冑山共同墓地(埼玉県熊谷市)にある。
滝善三郎については、神戸事件以外の記録が見当たらない。しかし、彼の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず、世界的にセンセーションを巻き起こすこととなる。検視に立ち会った当時のイギリス外交官・ミットフォード(en:Algernon Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale)が滝の切腹の模様を本国に伝え、それをイギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じたためである。
当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、さらには短刀に代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだが(幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった)、ミットフォードによると滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で書き残している。
京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。初代は1928年に作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫をした。しかし、1944年11月に金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年に再建されたものである。2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が建てられている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに於いて西軍方の主力となった豊臣家五大老の一人で岡山城主であった宇喜多秀家が改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し51万石で立藩した。慶長7年(1602年)秀秋は無嗣子で没したため廃絶。
慶長8年(1603年)姫路藩主・池田輝政の二男・忠継が28万石で入封した。慶長18年(1613年)約10万石の加増を受け38万石となる。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取藩に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封。以後、明治まで光政の家系が岡山藩を治めることとなった。
このように池田氏が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きい。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸時代初期の三名君として称されている。陽明学者・熊沢蕃山を登用、寛永18年(1641年)全国に先駆けて藩校「花畠教場」を開校した。また、寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末には9代藩主・茂政は徳川慶喜が実兄であったが、倒幕派とはならず隠居した。代わって支藩・鴨方藩主・政詮(岡山藩主となり章政と改める)を明治元年(1868年)に藩主に据え倒幕派への旗幟を鮮明にした。
明治4年(1871年)廃藩置県により岡山県となった。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。