ラウンド・トップ&ボトムとは何?
チャート上の天井や大底で見受けられるパターンのひとつ。半円を描くように反転していくことから日本ではラウンド・トップは「団子天井」、ラウンド・ボトムは「鍋底」とも呼ばれる。
商品先物取引、関ヶ原の戦いのときに清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則が安芸広島藩に加増移封されると、代わって徳川家康の4男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)するが、慶長12年(1607年)に忠吉が嗣子なく死去して廃藩となった。
代わって甲斐甲府藩から家康の9男で忠吉の異母弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、尾張藩が成立した。藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけるため、給人領(渡辺半蔵らに幕府から与えられていた領地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。義直は幼少のため、初期藩政は家康の老臣によって行なわれたが、成長してからは米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
投資信託・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。
第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であったが、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗に敗れた。
歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。宗春は倹約を主とする徳川吉宗の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を設置し、積極的な商業政策を推進した。これは吉宗の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであり、吉宗から咎めを受けたが、宗春は無視して政策を推し進める。しかし享保20年(1735年)に入ると積極財政に行き詰まりが起こり、さらに藩士の遊郭出入りなどから士風も乱れるなどの問題などから、財政赤字となる。このため、宗春の改革は停滞し、元文4年(1739年)1月13日に宗春は吉宗によって強制隠居処分に処された。
外貨預金を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。
第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、一時期は財政が好転したこともあったが、天災などによる被害を受けて財政が結局は悪化した。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。彼の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の血統は断絶した。
代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。この後、第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった。彼らは寿命や在位期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、尾張の藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。
CFDで御三卿・徳川将軍家などからの養子藩主反対の運動が起こり、支藩の美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。しかし井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い後、藩論を倒幕に決定し、御三家のひとつでありながら徳川将軍家と対決することとなる。
明治3年(1870年)、尾張藩は高須藩を吸収したが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により名古屋県になり、さらに愛知県に編入された。
旧下総佐倉藩主堀田正恒伯爵の六男として東京市渋谷区に生まれる。生まれた時の姓名は堀田正祥。学習院幼稚園から学習院大学まで明仁親王(今上天皇)の同級生であった。1955年11月、学習院大学政経学部経済学科在学中に尾張家20代当主徳川義知の養子となり、徳川義宣と改名、尾張家第21代の家督を継承する。
不動産投資、学習院大学政経学部経済学科卒業。同年4月、東京銀行入行。1957年11月、財団法人徳川黎明会評議員に就任。1960年5月、徳川黎明会理事となる。
1961年7月、東京銀行を退職。同年9月、東京大学農学部林学科の研究生となる。1964年9月に東京大学を修了し、東京国立博物館の研究生となる。1965年3月に東京国立博物館研究生を修了し、学芸員の資格を取得。この間、1965年1月に八雲産業株式会社社長となる。
1967年3月、財団法人徳川黎明会専務理事就任。1972年10月、有限会社徳川農場を設立し、社長に就任。
1976年4月、財団法人徳川黎明会および徳川美術館の館長に就任。旧大名家の家宝を収集する。特に尾張家旧蔵であった大名物《金花》の茶壺を再発見し、同家に買い戻した逸話は名高い。
徳川美術館所蔵の国宝《源氏物語絵巻》の研究で知られ、1977年4月、愛知学院大学文学部講師に就任(〜1984年3月まで)。1981年4月、青山学院女子短期大学国文科講師に就任(〜2002年3月まで)。1983年4月、上智大学美術史講師に就任(〜1991年3月まで)。
1990年4月、社団法人国際日本語普及協会評議員に就任。1991年4月、学習院大学日本社会史講師に就任。同年12月、博物館法制定40周年文部大臣表彰。日本博物館協会顕彰。
1993年5月、財団法人徳川黎明会会長に就任。2002年11月、文化庁長官表彰。
2005年11月23日、肺炎のため順天堂大学付属順天堂医院で死去。享年71。
成瀬 正肥(なるせ まさみつ、天保6年12月12日(1836年1月29日)- 明治36年(1903年)2月4日)は、江戸時代末期の尾張藩の附家老。尾張国犬山藩の第9代(最後)の藩主(ただし、藩主として認められたのは1868年からである)。
丹波国篠山藩主・青山忠良の三男。正室は成瀬正住の娘。子は成瀬正雄(長男)、成瀬美雄(次男)、娘(中山孝麿室)、娘(近野某室)。弟に下野国黒羽藩の第14代藩主の大関増徳(増式)がいる。幼名は欣之助、小吉。号は双山。官位は隼人正。
1835年12月12日に生まれる。1855年、正住の婿養子となり、その2年後に家督を継いだ。藩主・徳川慶勝が第1次長州征伐で征長総督となったとき、その補佐役として出陣し、責任を取って切腹した長州藩の家老・国司信濃、福原越後、周布政之助、益田右衛門介らの首実検を担当した。
王政復古の大号令後、朝廷から正式に藩主として認められた。それまで犬山藩は尾張藩の附家老であり、正式に大名としては認められていなかったのである。ただしそれも、1871年の廃藩置県までという短い間であった。維新後、子爵。
1903年、死去。法号:興徳院高節英嶽。墓所:名古屋市中区栄三丁目の白林寺。
備中国足守藩士・佐伯瀬左衛門の三男として足守(現・岡山県岡山市足守)に生まれる。
文政8年(1825年) 大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る。
文政9年(1826年) 中天游の私塾「思々斎塾」にて4年間、蘭学を学ぶ。
天保2年(1831年) 江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。
天保7年(1836年) 長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から緒方洪庵と名乗った模様。
天保9年(1838年)春 大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
弘化2年(1845年) 過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。